牡蠣に学んだ人間形成

今月はたらふくに牡蠣を食べた。毎日のように「牡蠣を食べたい」、「冬と言ったら牡蠣だよね」、「牡蠣食べるなら生?蒸し?焼き?」だなんて牡蠣の吹聴を続けていたら、次々と牡蠣を食べないことには明日を迎えられなくなっていく人たちが出来上がっていった。

人を誘うことが苦手な私が、牡蠣の力を借りて遠回しではあるが誘うことができたのはすごいことだ。そして、私の要望を快く付き合ってくれる人たちがこんなにもいることに気が付き、ひとりで生きていないと思った。

いつからだろう、他人の目ばかり気にしていたのは。自分の考えには絶対的な自信があって、共感できない人からの意見はなかなか享受しない。一旦自分の考えを貫き通したい。そんな頑固でできている頭なのに、人からどう思われているかと常に戦っている。

おそらく、自信があるのに自信がないのだろう。私は感受性に富み、色んなことに興味を持つ心豊かな人間だと思っていて、そんな私がとても好きだ。でも、他人から見た私は、一喜一憂にうるさく浅くて能天気な人で、とうてい好きには映らないだろう。

このおかしなギャップにいつも苛まれる。自分が思う自分のことは好きでも、他人から見られているであろう自分のことは苦手なのだ。だから、人間関係を即座に構築できない。とてつもなく時間がかかる。

被害妄想が激しいのは分かっている。顔色を伺いすぎなのも百も承知だ。でも、その顔色や言葉の端々で感情を読み取ってしまう力が強いのだと思う。嘘はすぐ分かる。その分本当に喜んでいることや楽しんでいることも分かるから、ポジティブな感情を露わにできる人がとても好きだ。

こんな面倒くさい私が、気軽に誘える人というのは心の底から信頼していて大好きな人である。こんな私と一緒にいてくれて、楽しませてくれているのだから。私が好きな私の部分を形成してくれている、もはや私の一部である。

環境が変われば関わる人も変わってくる。それでもずっと会いたいと思い続けられる人を大事にしたいし、そんな人達と美味しいごはんを分かち合いたい。

年の瀬にこの数年を振り返り、ひとりじゃないと思えたひとり。きっかけなんてなんでもいい、それがたまたま牡蠣だっただけ。