本音を言おうとすると何故か涙が出てくるだけ

昔はとにかく泣き虫だった。幼い時の深い記憶はほとんど泣いている。泣きすぎて逆に記憶にないだけで多分毎日泣いてた。

幼稚園の運動会で、最初の体操の時間に一番の仲良しの子となぜか喧嘩になって大泣き。

小学校2年生の授業参観、親の前で九九をお披露目する授業で、5の段が言えなくて大泣き。

小学校5年生のとき膝を怪我して、体育の授業に参加できなくて体育館の端で座って見学していたとき。最後の整列だけは並んだほうがいいかなと自発的に列に入ったら、怪我してるやつが真面目にやろうとしてるのに他の奴らはなにしてる!って、私のせいでみんなが怒られて大泣き。

周りからしたらなんで泣いてんのってなるから、とりあえず膝が痛いことにしてしまって、罪悪感でまた泣く。

体調崩して学校行けないなって日は、朝家族に体調悪いことが言えなくて、ご飯食べながら泣く。病院に行っても、お医者さんにどういう症状があるのか言えなくてまた泣く。

とにかく泣いてばかり。厄介な生徒だったし、恥ずかしい子供だっただろう。

中学生になってからは一旦落ち着いた。でもそれは、泣き虫がなおったわけではない。親友と呼べる人ができて、没頭できる趣味ができて、楽しい話題で毎日持ちきりで、泣く暇もないほどに充実できたからだ。

そこからは感動したり悲しい映画を観て泣くこと以外、あまり人前で泣くことはなくなった。

大人になってから、特に23歳ごろからは周りを俯瞰で見ることができるようになり、なるべくなるべく迷惑をかけない人間であろうと強く意識しだす。

朝から不機嫌とか、仕事で嫌なことがあったから不貞腐れるとか、負の感情を露わにする存在。昔の私みたいに感情を表に出すような人間にはなりたくないなと。

一定のテンションと常に話しかけられやすい姿勢を維持して、なるべく平和に毎日を過ごそうと心掛けるようになる。

そうすると、些細なことで感情が揺さぶられることがとてつもないストレスになってきた。平穏に過ごすことで保たれてきた私の感情の波を、不意に荒立てようとしてくる存在に恐怖を覚えた。

自分が心を許した相手とだけ狭く深くを築いていくことで、私の生活が守られるならそれでいい。

でもたまに涙が出そうになることがある。それは決まって大切な相手に本音を話す時。本音というのは、いつも感じている世間に対するモヤモヤだったり、嫌な態度取る人がいなくなったらいいのになぁとかいう理想だったり。

そして、相手への感謝や尊敬するところだったり。

普段は思っていてもなかなか照れ臭くて言えない大好きなところを、お酒を飲むと言いたくなる。褒めたくなる。本音を言いたくなる。すると自然と涙が出てくる。

大切な相手にほど、私は泣き虫に映っているかもしれない。

涙の定義。自分でもよくわからないフェーズに入っているけど、INFJにとっては当たり前の感情と知ってすごく安心した。

そう、だからもう私は泣き虫じゃない。本音を言おうとすると何故か涙が出てくるだけ。